ホーム > 高山産業の歩み
当社は昭和27年(1952年)に創業し、「?」マークでおなじみのマジックインキのフェルト部(インクの染みた部分)の打抜き加工を主力に事業基盤を確立してまいりました。昭和35年(1960年)1月、髙山パッキング産業株式会社として設立し、以来55年間、各種発泡樹脂・工業資材・包装資材の加工・製品開発に携わってまいりました。
思えば55年間、さまざまな出来事がありました。創業期にはどんな仕事でも断らず、父親と2人で早朝から深夜まで作業し、お客様の信頼を獲得してきました。その後も、さまざまなご要望に創意工夫し対応してまいりました。
55年の間に、加工する素材はフェルトからウレタン、そしてポリエチレンと多様化し、さらに平成に入りさまざまな素材も取り扱うようになりました。また、加工方法はプレスからスリットへと変わり、巻き方もレコードからボビン巻きなどに進化しています。さらに会社も家内工業から職人集団、そして従業員も増え会社組織へと変わり、製造方法も手工業から機械化へと変わってきております。お得意先も大阪から関西、全国へと広がっております。このように時代の変化の中で進化を遂げ、ここまで事業を継続してこられたのは、お客様や仕入先様のご支援の賜物と感謝しております。
今後も、当社の事業にご理解いただき、ご指導ご鞭撻賜りますよう
お願い申し上げます。
現会長 髙山宏好の父・市治が内職で始めた裁断業が経済発展とともに忙しくなり、サラリーマンをしていた宏好が家業を手伝うことに。会社を退職して父親とともに大阪・弁天町で髙山加工所を創業。当時は手包丁やダルマプレスで、自動車のシャフトのパッキンやミッションのオイルシートなど、さまざまなモノを裁断していました。
マジックインキのフェルト打ち抜き加工の依頼をいただきましたが、手作業での裁断は不可能であったため、機械化を計画。大阪の鉄工所に日参して専用の機械を製作していただき、打ち抜き加工を始めました。
当時は親子二人で朝6時から深夜まで作業を続け、「高山なら何でも引き受けてくれる」とのこと評判を呼び、あらゆる加工品の注文を受けていました。
包装資材も取り扱うようになり社名を変更。資本金50万円で株式会社化を果たしました。
会社には宏好の兄弟も加わり、営業、製造、総務、経理と組織体制の基盤が確立していきました。
素材メーカーがポリエチレン発泡フォームを開発し、新しく加工品に加えました。当社は受注品だけではなく、ポリエチレンを使って自社ブランド「コスメチックバンド」を開発(商標登録、実用新案特許)。
これはポリエチレンをスリット加工しバンド状にした製品で、数枚の住宅用合板を巻き、シュリンク包装するものです。合板を安定して積み上げることができるため、合板メーカー各社に一挙に採用されていきました。
包装資材が減少したことから、事業内容に合わなくなり社名を変更しました。
当時、空調やトイレのタンクやのブロー成型を手掛けており、商品の保管場所に広い敷地が必要であったため、滋賀県長浜に用地を求め工場を建設しました。滋賀工場ではコスメチックバンドなどの製造も行いました。
当時の加工方法はプレス加工とスリット加工の2種類が主流でした。当社は機械のコンパクト化が図れ、細く長く加工できるスリットを中心に設備投資を進めていきました。それに伴い、釣り糸のように紙管に蛇行させながら巻いていくボビン巻きに注力していきました。従来のレコード巻きは30mほどしか巻けませんでしたが、ボビン巻きは3000~4000mの加工品を巻くことができので、サッシメーカーなどにご採用いただきました。
ただ、ボビン巻きは、どうしても巻いたものが圧力で変形するため、当社は大量に巻いてもその際に巻いたものが変形しない巻き方を研究しました。
滋賀工場は、その後、数度の増築を重ね設備を充実していきました。
自動車メーカーへの取引きを本格的に開始したことを機に、加工方法をスリット加工に特化し、設備充実のためE棟を増築しました。当時も職人の勘に頼った加工が残っていましたが、作業の標準化と自動化を進め、技術の継承を推進していきました。
中部地区の販路拡大のための生産・販売拠点が開設されました。
お得意先様の要請により、ISO9001を取得し、製造方法のシステム化をさらに推進しています。
地球環境保護と周辺地域への環境負荷低減の観点から自主的にISO14001を認証取得しました。(滋賀工場)
自動車関連の販路拡大のための生産・販売拠点が開設されました。